こんにちは。
ひかると申します。
このブログでは、私の考えや経験や実体験やに基づき、情報を発信するものです。
私のその考え・経験や実体験などがあなたが生きていくうえでの参考になって頂ければ、これほど嬉しい事はありません。
このブログはあなたの人生を応援したいという思いで作った、いわば地図のようなものです。
その前に、私の自己紹介をさせて頂きたく思います。
私は現在、36歳ですが、その人生のうち半分を健常者として生き、残りの時間を障害者として生きてきています。
20歳の時に発達障害【ASD】とてんかんを診断されました。なので、人生の約半分となります。※因みに、ADHDの傾向や症状もあります。
こちらの自己紹介では、小学生~社会人までのお話しをさせて頂きます。
この話はこのブログ記事で情報発信をするうえでのあらすじとなるものです。
こちらでは簡単に説明させて頂きます。
それでは、どうぞ。
まず、前提として、発達障害者の一定数の人は学校の授業についていけなかったり、体育の授業で団体スポーツがうまくできず、クラスメイトから嫌がらせ行為を受けてしまう事が多いです。
私もそのようなタイプですが、これから話していきますので、最後まで読んで頂けると幸いです。
ヒカルの自己紹介とこのブログの存在意義とは?
小学生~中学生までの話
まず、私の場合は、小学2年生までは学校の授業についていく事ができ、テストの点数も悪くはありませんでした。
ただ、小学3年生~学校の授業についていけず、親からも「何でこんな事も理解できないんだ!」と怒られ、殴られていたのを覚えています。
私の親は少々、昔の教育・・・子どもを殴って育てるような教育が正しいと考えていたようで、私は家での親の暴力と学校でもいじめがあったため、そのサンドバックのような生活を
小学3年生~中学3年生までの間していました。
その間の記憶はありますが、何せ、勉強もスポーツも友人との関係も上手くいった試しがなかったので、小中学生時代の成功体験という観点から見たら殆どありませんでした。
当時、私が幼少期の頃で30年以上前は現在と違って発達障害の存在は世の中には殆ど知られておらず、発達障害がある子どもは発達障害が無い子どもと言語や運動などの発達の遅れが明らかに見られるので、理解の無い親御さんからしたら、ストレスを感じてしまい、虐待につながる可能性も少なくはないです。
因みに、それは現在もあると思います。私の場合は母親は理解があったので、2回程、小児精神科医に連れて行ってもらった事がありましたが、その時の医師の診断は、「わからない」だったそうです。
その「わからない」という診断はもしかしたら、グレーゾーンでその後の親からの教育や学校での教育、関わっていく人との交流で症状に差が出る可能性があります。
※この点、詳しくは後に記事でまとめます。
次は、高校生の時の話です。
高校生時代の話
高校は中学生の時に成績があまりにも悪く、親に頼んで、近所の私立高校に単願で入学させて頂きました。
その時に中学校で私に嫌がらせをしてきた人はその高校には入学してこなかったので、そこでせめてものの、同性に嫌がらせを受けないためにはどうすればいいのか?
と考えて、元々の性格が若干暗めだったため、せめてものの、髪の毛をスポーツ刈りにして、ヘアワックスでバリバリにかためて、先生だけでなく、校内の見知らぬ先輩や同級生にも、毎日のように元気に「おはようございます!」
などと挨拶をしたり、同じクラスの友達と会話する時は積極的に会話の中に入っていってました。
学校の勉強もそれほど難しいとは感じた事なく、クラスで8番の成績を取りました。
・・・嘘です。ケツから8番目です。汗
勉強よりも部活動の卓球を優先しすぎた結果です。
ここで、私は嫌がらせのない学校生活を手にしたのです。
嫌がらせの無い、学校生活・・・・。
それは、私にとっては楽園そのものでした。
中学生まで様々な人に嫌がらせを受けていた私にとっては。
ここでなのですが、中学時代まで、私はクラスメイトと殆ど会話をしていませんでした。
必要最低限の会話のみで、あとは部活のメンバーとの話や遊びくらい。
クラスメイトとは学校生活で一番長い時間を共有します。
それこそ、普段の授業や体育祭、修学旅行などと、部活よりも長いです。
ここで、クラスメイトとの会話のやり取りを経験しておかないと、後の人生で良い方向にも悪い方向にも進みます。
良い方向は、しっかりと自分自身の考えや相手の気持ちにたって考えられる視点を身に着けられる事。
悪い方向は、コミュニケーション力が磨かれなかったり、相手の気持ちを理解できなくてトラブル続きの人生になってしまう事です。
また、純粋な人の場合、悪い友達と付き合う事になると人生がどんどん悪い方向に進むので注意が必要です。
※この点も後ほど記事にします。
次は大学生時代の話です。
授業にバイト、サークル、部活動と忙しく波乱万丈な大学生時代
※大学時代の章では、学年毎に書いていきます。
理由は、私の自己紹介で重要な「発達障害」や「てんかん」が診断された時期と被るからです。この時代の事を話す事で、元々、健常者だった人が急に大人の発達障害者になるか?
という過程が見られるでしょう。
また、私の見解ではありますが、その説明も随時していきます。
それでは、大学1年生の話からどうぞ。
バイトと部活に明け暮れた大学1年時代
初めてのアルバイト(ラーメン屋)での成功経験と失敗経験
まずは、ラーメン屋のアルバイトのお話です。
私は大学生の時は既に、1つのアルバイト先で長く勤めるよりかは、いろいろな店でアルバイトをして自分を成長させたり、私自身が社会人になってから自分自身の適性を確かめたかったので、複数のアルバイトをしていました。
その時にまず始めに大学1年生の時はラーメン屋のアルバイトを1年ほど続けていました。
正直なところ、自分でも思うのですが、あの時はめっちゃ努力してました。
面接時も応募理由が、「自分を成長させたいです!」という内容で採用になり、それから私は最初は、店内清掃から、レジ業務、ホール業務、洗い場という順で業務を任せて頂きました。
しかし、その時、思いがけない事故が起きます。
なんと、、アルバイト勤務中に今までスムーズにできていた仕事の内容、メモに書いていた仕事内容を含み全て頭の中から消えてしまったという事態が起こったのです。
その直前までに普通にやっていた業務を一瞬ですべて忘れてしまったという事です。
ど忘れという程ものではありません。
仕事の内容だけ全部、記憶喪失のようになってしまったのです。
おそらく、業務中にパニック状態になってしまったと、今では分析しています。
※発達障害を持っている人は仕事中や勉強中などでワーキングメモリーというもの、頭の中で情報を整理できるキャパシティの限界を超えてしまうとパニック状態を起こすなどの症状があるそうです。
そして、私はもう一度、ラーメン屋のアルバイトの業務を先輩や社員さんにイチから教わり、また活躍し始め、他のエリアのお店への応援を店長からお願いされる事になりました。
そこで、いつも働いていたラーメン屋は私の家から徒歩3分程度だったのに、他の店舗に応援に行くために自転車で1時間くらいかかる店まで応援で勤務しに行くなど、とにかく働きまくります。
あの時に業務内容をすっぽりと忘れてしまったという、悔しさからという事もあるかもしれません。
その時、私には、週に4日で〇〇時間も働いたから、月に8万円位もらえるぜ!
等という考え、バイト代目当ての考えは持っていませんでした。
とにかく自分を成長させたい!という理由で入社した私は仕事を通して自分自身が成長していっているところを感じるのが楽しかったのです。
なので、仕事中は頭の中でドーパミンがドバドバと滝の水が落ちて、川に流れるように頭の中を巡回していましたので、仕事中の私はテンションが高かったです。
発達障害(特にASD)の人は自分がやっていて好きな事や夢中になった事に対してのめりこむように集中するという特徴があります。
ASD、ADHD問わずかはわかりかねますが、「過集中」という特性が発達障害の人には存在しており、好きなものやハマったものに関しての集中力は健常者と比較できない程になります。
しかし、集中し過ぎて、私のようにパンクして頭が真っ白になったり、過集中で体調を崩す事があるので、程ほどに休憩を取ってほしいです。
因みに、集中力に関しては、嫌いなものや興味の無い事に関しての集中力の無さは常人離れしてます。。
※この事については後ほど、記事にします。
しかし、、、
そんな楽しくも、充実したラーメン屋のバイトは終わりに近づいてきます・・・。
ヤ〇ザに殺されかけ、ラーメン屋のバイトをクビになった出来事
ある日、ヤ〇ザさん風の2人のお客様が私の地元のラーメン屋に来店してこられます。
そこで、私はいつも通りに接客やお冷出し、商品提供と業務をこなしていきます。
ここまでは順調でした。
しかし、問題はこの後。
2人のお客様のうちの若い方が「おあいそで!」
と少し大きめの声で話します。
そこで問題だったのが、私は当時、「おあいそ」という言葉の意味が分からなかったのです。
また頭の中が真っ白でパニック状態になってしまった私はそのお客様に無意識に「おあいそ」って何ですか?
と話してしまいます。
そこで、半分怒り、呆れかえったように「おあいその意味わかんねぇのかよ!」と言われ、私はそのヤ〇ザ風のお客様のうち若い方に対して、ムッときてしまい、睨みつけてしまいます。
そこで、その2人のお客様から店、正しくは私に対して、クレームが入ってしまいます。
「店長を呼べ!!!」
とわめく、お客様。
お客様の一人がバックヤードに侵入し、休憩中の先輩もびっくり。
そして、パニック状態になり、「なんて事をしてしまったんだ・・・」と冷や汗がダラダラになる私。
そこで、その時、夜中の3時に家で寝ていた店長が店に呼び出され、お客様に怒られてしまいます。
私ももちろん謝罪しましたが、マニュアル通りの謝罪しかできず、若い方のお客様を更に怒らせてしまいます。
そこで、私はパニック状態の連鎖で崩れそうになりましたが、そこで、もう一人のおじさんの方のお客様が、突然、私に次のように話しかけます。
「君、いくつだい?」
私は「18歳です・・・」
と答えると、そのお客様はため息をつきながら、私に「人生勉強してください。」
と話し、もう一人の若い方のお客様が私を煽ったり、バカにしているのを大声で「殺すぞ!!」
と怒りつつ、お店から出ていきました。
当時は私がお客様に怒鳴られたりしてパニック状態になったという恐怖もありましたが、夜中に家で寝ていた店長を起こしてしまった事、店の看板に泥を塗るような被害を与えてしまった事で申し訳ない気持ちになり、
最初から、他の社員さんや先輩に「おあいそ」の意味を聞けば良かったものの、お客様を不快にさせてしまった事でもとても後悔しました。
その後、私はエリアマネージャーから店長づたいに「君はもう、この店で面倒を見切れない」と、つまり、クビを言い渡されます。
他に応援に行って働いていた店の店長さんから電話がはいり、『君ならまだやれるからウチの店にきなさい。』
と言ってくださったのですが、その時の私は自己否定感の塊と店に迷惑をかけてしまった申し訳なさから、「いえ、お話はありがたいですが、お断りします。」と断って、たくさん残っていた有給休暇も放棄してラーメン屋をあとにします。
大学1年の時は卓球サークルを作り、ラーメン屋のバイトと共に練習に明け暮れていました。
私は大学に入った時に、自分が入学した大学には卓球部はありませんでした。
なので、どうしても大学で卓球をやりたかったので、私自ら、卓球サークルを作りました。
衝動的に体育の先生に相談しに行き、顧問になって頂く事に。
そして、卓球サークルのメンバーを集めるために、大学側に許可を頂いてから部員募集用のポスターを作り、大学構内に貼りまくりました。
そこで、そのポスターを見た人が7人くらい入りました。
そして、次第に部員は増えていき、最大で11人に。
中国人留学生が多かったので、みんなで卓球の話をしたり、大学の体育館の卓球台でプレーをしたりして楽しみました。
しかし、その中の殆どの部員が卓球サークルを「アルバイトと授業の両立が大変。」という事でいなくなってしまいます。
それでも、私は卓球の練習がしたい・・。
と思い、卓球サークルの顧問の先生に相談をしました。
その時、その顧問の先生が私が通っていた大学の隣にある国公立大学の卓球部の人に連絡をして下さり、結果的に、その国公立大学で合同で練習をさせて頂けるようになったのです。
その大学の卓球部の練習は週に4回。
ラーメン屋のバイトは週に3~4日ですので、どうしても、バイトの日と部活の日が被る事になります。
バイトもやらなければならないし、卓球の練習もしたい・・。
という欲張りな私は大学の授業を受けつつ、バイトと卓球の練習も両立させます。
ラーメン屋のアルバイトはかなり身体を動かすし、肉体労働です。
それに加えて、卓球もかなり身体を酷使します。
今思えば、高校生の時に部活で体を鍛えておいて良かったと思います。
もちろん、動いてばかりでは身体がもたないので、ラーメン屋のアルバイトでのまかないはいつも大量に食べていましたが。
国公立大学の卓球部での練習・・・。
そこでは、部員の人数が30名以上いらっしゃって、全員、自分よりも上手い人ばかり。
年上の方もいて、私自身、今まで年上の人との会話をしてこなかったので、この大学の卓球部での練習に参加する事で、コミュニケーションを取るため、距離感を身に着けるためのスキルの重要さを学びました。
こちらでは、部員の皆さんは優しい方ばかりだったので、私が何か問題発言をしてしまっていても、許してくれていましたが、それは今では通用しません。
私は元々、人とコミュニケーションを取る事に抵抗を感じていましたが、この卓球部での練習で人と話す事が怖いという意識が無くなりましたが、
現在では、
しかし、人と話すのが怖いという意識が無くなったとはいえ、コミュニケーションの質の悪さは治ってはいなかったため、相手の気持ちを考えたり、自分を俯瞰して人と話す事ができないという浮彫になってしまったため、ASDのコミュニケーション力の苦手さとADHDの衝動性が現れてしまい、
結果的に、
ADHDの特性で衝動的に人と話してしまい、ASDの特性か、上手く話しのまとまらない状態で話しをする事と、自分を俯瞰して相手の気持ちを読み取る事ができていない状態になった状態です。
※これを治す方法や防ぐ方法はもちろんあるので、後ほど記事で解説します。
勉強系サークルに入って、大人のダークな価値観を味あわされた話。
大学2年生になり、卓球仲間の友人にコンビ二の夜勤のバイトに誘われ、そのコンビニのバイトをするようになりました。
その頃に、私の親に「日商簿記3級を受からなければ、大学を辞めさせるぞ!!」と父親から言われてしまいます。
独学で勉強するのは、限界があるかなと思い、勉強系サークルとして、「簿記研究会」というサークルに入り、先輩たちに簿記を教わりながら勉強を始めました。
そこで、勉強を開始し、一時的に卓球部の練習は中断する事に。
そこから、私の簿記の猛勉強が始まります。
週に3回、先輩とマンツーマンで簿記を教えて頂き、バイトを並行しながら自宅で簿記の勉強をしました。
そして、3か月後に試験を受けて、、、落ちてしまいました。
1回だけではありません。
合計3回落ちてしまい、親にも呆れられ、「簿記はもういいから、大学の勉強とサークルとバイトを頑張れ」と告げられます。
普通はそこで、「諦めない!簿記3級を取るまで頑張る!」というのが一般的かと思いますが、私自身、正直なところ簿記などの計算をするような勉強は得意でない上に嫌いだったので、親が言う通りに、他のサークルや卓球部の練習、バイト、授業に明け暮れます。
その後、簿記のサークル以外の勉強系サークルに入ります。
その勉強系サークルは、金融の事を学ぶサークルでしたが、主な内容としては、いわゆる良い会社、大企業に就職する為に学習したり、集団会議をして会話力や就職や仕事に必要な考え方を共有したりするようなサークルでした。
そこのサークルに入って、私自身、「俺はここで、大きく成長できるかもしれない!!」と思い、積極的に会議などの活動に参加しました。
当時の私には、バイトで培った仕事の経験うんぬんよりも、「卓球が好きだから、卓球にかかわる仕事がしたい!」という願望がありましたので、ある日の集団会議の時に、
「自分がやりたい仕事とは?」というような議題の会議に参加し、自分が話す順番が回ってきた時にその自分の夢を伝えました。
そう、「卓球にかかわる仕事をしたい」という話です。
私は自信満々に、「僕は卓球が大好きなので、卓球に関わる仕事がしたいです!!」と大きな声で話すと、周りの参加者から信じられないような反応が返ってきました。
なんと、、その会議の参加者全員に大爆笑されたのです。
なかには、お腹が痛そうに、腹を抱えて笑っている人もいましたし、「ハァーおかしい」とフザけた反応を取る人もいました。
もちろん、顧問の先生も大爆笑です。
その後に、顧問の先生から、何故、皆が大爆笑したかを告げられます。
ここで私はこのサークルの冷たさ、いや、大人の世界のダークな考えを知ります。
それは、、顧問の先生曰く、「趣味を仕事にすると、何か仕事で嫌な事があった時に、趣味が嫌になるからだ。趣味と仕事を分けろ。仕事に遊びを持ってくるな。」
との事でした。
私から言わせれば、「好きな仕事をして何が悪いの?」という考え方です。
後に述べますが、結局、私は就職先に卓球と関係ないもので好きなものを選びました。
その後にその大学のサークルの先生から、東京都でバイトをして来いと言われます。
その理由がまたひどく、「こんな田舎にいるから、あんな腐った考えになるんだ。東京で都会の空気を味わいながら仕事してこい。」だそうです。
私は頑張って勉強して就活を終えたら好きな仕事ができるかも!とワクワクと心を躍らせていたので、ここでお話ししたサークルの顧問の先生の話を聞いて、サークルに入った事をかなり後悔していましたが、今となって思い返してみると、良い経験だったなと思います。
その件については次回以降でわかります。
バイト掛け持ちとサークルと部活動と授業の並行で精神的にぶっ倒れる話。
そして、バイト求人サイトで東京の飲食店のバイトを探し始めます。
何故、飲食店を選んだかというと、私は今までに飲食店のバイトしかしてこなかったから経験を活かせると思ったのです。
もちろん、もう、あのラーメン屋のアルバイトでのクビになったという失態は犯しません。
選んだバイト先は、東京駅の鉄板焼屋さん。
まず、東京という空気に慣れていない私は面接の時も、初出勤の時もとても緊張してしまいます。
元々、ラーメン屋でのバイトではホールをやっていたのですが、私が任せて頂いた仕事は厨房に近いところで、ドリンク作りと前菜作り、スープの仕込みや伊勢海老やアワビを水槽から厨房へ運ぶ仕事をしていましたが、
ドリンク作りにおいて、異常なほど早口なオーダーで伝票を見る暇もないような状態でカクテルやビール、ソフトドリンク、ワイン等を用意しなければならなかったので、私はパニックになってしまい、ドリンク作りの仕事で、ワイングラスを大量に割ってしまったり、オーダーを聞き間違えたり、オーダーの内容を忘れてしまったりと、たくさんのミスをしてしまいます。
そこで、社員さんから、ドリンク作りではなくて、洗い場と伊勢エビとアワビを水槽から厨房へ運ぶ仕事をしてほしいと言われます。確かですが、そういわれました。
この私が鉄板焼屋さんのアルバイトでのドリンク作りの仕事でおこしたミスに関しても発達障害の特性や特徴が顕著にでています。
※この事に関しても、後に記事で詳しく解説させて頂きます。
話は戻りまして、鉄板焼屋のアルバイトの話など、私の学生生活に関しての説明に戻ります。
私はこの時、東京と大学と実家のある、千葉県某所の間を毎日のように行き来していました。
因みにその間、卓球仲間からお誘いを受けた、コンビニのアルバイトは続けたままです。
大学の授業は週に4日~5日かつ、
・週2で深夜にコンビニのアルバイト。
・卓球部の練習は週3程、参加させて頂いておりました。
・勉強系サークルの活動は週1でした。
・そして、鉄板焼屋さんのアルバイトは、土日も含めて週に3日から4日やっていました。
確か、正確かはわかりませんが、この生活を5か月程繰り返して、私の精神にガタが来てしまいます。
サークルでは周りのメンバーから変な目で見られているような感覚になり、ところどころ、大学中の人やサークルメンバー達から、ヒソヒソ話をされている感覚でしかも、自分の悪口や陰口をたたかれている。
というような被害妄想が激しくなってしまいます。
さらには、卓球部の練習の後に自転車をこいで帰宅している時に急に気絶をしてしまい、転倒してしまいます。
そこで、私は母親と相談して、大学病院の精神神経科に通院する事になりました。
そして、専門の用紙にいくつかのチェック項目があり、チェックをして診断に臨みました。
結果はもちろん、黒で、前述のとおり、当時の診断名としては、「広汎性発達障害(ASD)」と「欠神性発作のてんかん」、「社会不安障害」を診断されましたが、社会不安障害に関しては現在は治っています。
代わりにですが、うつ症状が出てきています。
診断はされていませんが。
発達障害が診断されたと同時に当時の私はとても悲観的になり、「あぁ、自分は障害者になってしまったんだな。障害をもっているという事は何もできないんだ」という考え方が頭の中に出てきてしまいます。
この時点で既に、障害者差別をしていますが、この考え自体が一番良くなかったのです。
障害者は何もできないのではなく、できる事から挑戦していったり興味のある事に取り組んだりする事が重要な考えです。
その考えになってしばらくしてから、はっと目が覚めて、様々な事に挑戦するようになりました。
そして、月日が経ち、就職活動を迎えましたが、当時・・・、16年以上の日本には発達障害という障害は世の中に情報が無く、知っているのは専門家か医者くらいで、就活の面接会の時はコミュ力が無い私が自ら、自分の障害についてを説明していましたが、その度に不採用になってしまったので、
「私単独で就職活動をしても受かるのは厳しいかも・・・」と思い、大学卒業後に障害者の職業訓練施設に通う事になります。
ここで、障害者の職業訓練施設でパソコンなどの訓練や様々なカリキュラムを通して、就職活動で成功して、外資系IT企業に入社する事になりました。
※今後、記事で障害者の職業訓練施設【就労移行支援事業所】についての記事を書きます。
外資系IT企業で5年間勤務した後の転職活動について
外資系IT企業で5年間働いた後に転職活動をします。
その時もまた、障害者雇用で働きたかったので、また、就労移行支援事業所に通い、カリキュラムと職業訓練を受けて、障害者雇用の就職サイトで求人を探して、就職は意外にすぐに決まりました。
採用試験も最初は不採用がありましたが、後に不採用が無くなっていきました。
私は自分にとって希望の働き方や職種を追求し、現在は、人と殆ど会話しなくても済むような完全在宅の仕事に就いています。
それまでに複数回、、6回程転職しましたが、コミュニケーションや集団行動が苦手な私には通勤での勤務は向いていない事が分かったのです。
それからずっと在宅勤務で働いています。
あなたも私と同じように、自分の好きなように好きな場所で仕事をしてみませんか?